「行かずに死ねるか!」

石田ゆうすけさん

7年間ぶっ通しチャリ世界一周
 9万5000kmの旅
---今回は、自転車で世界一周9万5000キロの旅を成し遂げた『行かずに死ねるか!』の著者、石田ゆうすけさんをお招きしました。7年半の月日をかけた旅---あるいは冒険 ---その旅先で石田さんが出会った各国の人々、思わず息をのんだ風景の数々をスライドを見ながら、お話しいただきました。

トークはこの自転車世界一周の旅に至るまでの経緯から。


▼石田さん
「何でこんなことをしようと思ったか?」

 小学2、3年生の頃に自転車に荷物をつけた青年を見かけて、それが子供心に衝撃を受けまして。。それでまず手始めに高校1年の時に和歌山県を一周(5日間)。これまでの距離感というかテリトリーというのは、自分を中心に半径10キロくらいが世界のすべてという感じだったのが、この旅で一気に世界が広がりました。自分の中の可能性がパッと開けて武者震いしました。

 これで味をしめ、高校2年で近畿一周(2週間)。そして大学2年の時に1年間休学して日本一周。その旅の終わり、ゴールが近づくにつれて言いようのない虚しさに捕らわれました。最終日、「何でこれで終わりやねん。もっとでっかい世界があるやないか」。そう思った瞬間に、いままでの自分の可能性を日本の枠にはめ込んでいたのが、日本を離れてドーンと世界に広がっていく気分になりました。せっかく生まれてきたんやから、やれるとこまでやったろうやなかと思ったわけです。ホント単純なんですけども、この自転車世界一周の旅の基本はそういうところにあります。

---そしていよいよ世界一周の旅はスタート! いや、本当の出発はまだもう少し先?

 大学4年の時、ニュージーランド一周(2ヶ月間)の旅で世界一周の前哨戦を済ませます。これは楽勝。大学卒業後、サラリーマンとして3年3ヶ月間勤務。旅の資金を貯めて、オーダーメイドの自転車(ボイジャー号)を手配。いよいよ世界一周の旅がはじまります。 世界一周たるもの、それは端っこから端っこの旅なのである(笑)と、アメリカ大陸はアラスカからスタート。カナダの雄大な景色に圧倒され、マイナス16℃の雪道のなか自転車を押し、インディアンのナバホ族の聖地モニュメントバレーでその幻想的な朝日、夕景色に見とれつつアメリカ大陸を南下。

 中南米。メキシコを経て、ペルーに入ったところ、砂漠で強盗に襲われてしまいます。腹に拳銃をつきつけられ、両手足を縛り上げられます。でもそこで石田さんは意外にも冷静になれたのだそうです。

▼石田さん

 そういうときって、それほど怖いと感じないんですね。ロープで結ばれているときは、「ああ、これで殺されはしないんだな」と、人間、冷静になれます。それでちょっと交渉してみようかと。。自転車だけは残して欲しいとお願いしてみました。そうしたら強盗もいい奴で(笑)、自転車だけ残していってくれました。それでまた旅が続けられたんです。

---あの岩陰からまた強盗が出てくるかもしれない。そんなトラウマに悩まされながらも石田さんはペダルを漕ぎ続けます。




「行かずに死ねるか!」
世界9万5000km 自転車ひとり旅
実業之日本社 定価:1575円(税込)

おもろいやないか!運命を変えてやる
自分の力で 変えてやる
そしてぼくは「世界一」を探しに旅に出た

























▼石田さん

 強盗たちの血走った目。(腹に感じた)拳銃の冷たさ。。寝ようと横になると、そういうのが恐ろしくて眠れなかった。日本に帰りたくなった。でもここで帰ってしまったら、一生強盗に襲われたトラウマを引きずって生きていくことになる。そっちのほうが怖かった。だから無理やり前に進みました。

 空中都市マチュピチュの遺跡。ボリビアの塩湖。パタゴニアの氷河。。アンデスを越え、ヨーロッパへ。美しい街並みをを通りすぎ、アフリカ大陸へ。

 砂漠の終わりってどうなってんやろ? と、それがすごく知りたかったんです。で、サハラ砂漠の果てまで行ってみたら、そこは突然の崖っぷち。海でした。潔くてなんかうれしかったです。

 サハラ砂漠を南下すると、そこはブラックアフリカです。村を走っていると、顔面の半分が歯(笑)、すごい笑顔で子供達が追いかけてきます。それを見て、「幸せってなんやろなあ」と思いました。すごく貧しい土地なんですが、そこでは日本人の私達が抱きがちな、貧乏=不幸せというような価値観なんか関係ないんじゃないかと思いました。

 --- 中央アフリカの旅。その途中で偶然に出会った日本人3人。それぞれに一人旅をしていた彼らは意気投合して、現地で自転車、テントを購入。石田さんとともにアフリカの南端、喜望峰を目指します。

▼石田さん
 ジンバブエで知り合った日本人3人。タケシ、アサノ、ジュンと一緒に4人で喜望峰まで4ヶ月かけて走りました。ふつうだったら2ヶ月なんですが、ボロ自転車の足手まとい(笑)が一人いたので、ゆっくり進んで行きました。

 その旅は1999年から2000年にまたがった時期だったので、途中、ミレニアムパーティーを企画しました。ナミブ砂漠で年越しをしようと、それまで知り合った旅行者に声をかけて。。タケシという男はミュージシャンで、僕はこんな顔して詩を書いたりするもので(笑)、そのパーティで一曲披露しようということになりました。それで出来たのが『ピリオド』という曲です。

---と、ここで最近ネット上で販売をはじめたという曲が会場に流れました。曲ができた背景は、『行かずに死ねるか!』で詳しく書かています。
 喜望峰に無事到着した4人は、そこでそれぞれに別れます。石田さんはそこから中東に飛び、イスラエル、ヨルダン、エジプト、イラン、パキスタン、タイ、、と巡ります。それから中国に入り、日本まであと2000キロとなったところで、日本一周の旅の終わりで感じた、あの感覚が蘇りました。


▼石田さん
 日本まであと2000キロ。街の感じが日本に似ている。どこかつまらない。こんな思いで7年間の旅を終わらせていいのか? と。それで、ローマからシルクロードを東へ向かっていたルートの途中、中央アジアで南下してしまった地点まで戻って、そこから再び東へ向かって西安までたどり着ければ、と考えました。そうすればシルク
ロードを完走したことになるし、ユーラシア大陸を横断したことにもなるし。

 わざわざラスト2000キロを6000キロするなんて馬鹿馬鹿しいとも思いました。でも、きついことをすればしただけ達成感も大きいですから。

 東南アジアより過酷な大陸内部の灼熱地獄の中、のどをカラカラにさせてペダルを漕いでいたら、さっき一度追い抜いたトラックがUターンして戻ってきてクルマを止めて、冷たい水をくれました。熱風で声帯をやられていたためお礼の言葉も出ないくらいでした。
 冷たい水を飲んだら、足がガクガク震えてきて涙がボロボロとお流れてきました。

 この旅はいつも人に支えられてきた旅でした。そして、この最後の最後まで自分は人に甘えっぱなしだったと改めて思いました。ずっと一人で旅してきたわけですが、自然に触れ旅していたことは、その土地土地の人々に支えられ見守られてここまで来れたんだと、その時本当に強く思ったんですね。涙が止まりませんでした。

---こうして石田さんの7年半に及ぶ自転車世界一周の旅はフィナーレを迎えます。
 終わりに石田さんがこの旅を振り返ってひと言。

▼石田さん
7年半の旅から帰ってきて1年半経ちました。
 この旅で何か変わったかというと、ひとつには文明観みたいなものが変わったように思います。僕は昔からマージャンが好きで、「ツキの流れを読む」というような感覚が普段の生活でも知らず知らずのうちに染み付いてしまっていました。いまツキがないなと感じたら、行動も消極的になってしまう感じでした。。でも旅の生活の中では、それでは通用しない。行動自体が能動的なんですね。ペルーで強盗に遭ったとき、旅の出発3週間前に緊急入院したとき、前に進みました。向かい風が強いとき、昔の自分だったら「今は神様がいま行くなといっている」と考えたでしょう。でも、旅していたとき、風向きが変わるのを待たず走りはじめてみると、突然風が変わったりしました。その時、「あ、俺が自分で変えたんや」と思えました。
 ツキの波が悪いとき、いかに自分でその波を変えるか。それが大事なんだと思いました。


石田さん、ありがとうございました。


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